プライドマンス期間のこの日、地下鉄1号線・鐘路3街駅の出口に10数名の参加者が集まりました。鐘路(チョンノ)エリアで、韓国のクィアコミュニティの歴史をたどるヒストリーツアーに参加しました。解説・案内役は韓国政治史や性産業の歴史、クィア史を研究するキム・デヒョンさん、人類学者のチョ・スミさんが通訳として参加しました。

①パゴダ公園(タプコル公園)―出会いの起点
最初に訪れたのは、鐘路のランドマーク的存在であるパゴダ公園(現・タプコル公園)です。1897年、アイルランド人のジョン・マクレヴィ・ブラウンの手によって庭園として整備され、1920年に公衆に開放されたソウル初の近代式公園であり、1919年の三・一独立運動の発祥地としても広く知られています。
しかしこの公園には、公式の歴史書には記されていないもうひとつの顔がありました。韓国の歴史研究者Yi Huso(2004)によれば、タプコル公園と鐘路一帯は、同性愛者たちにとっての集いの場として機能していました。特に1950年代から60年代にかけて、社会的な抑圧のなかで自らの性的指向を公にできなかったゲイ・トランスジェンダーの人々は、大通りに面したこの公園を待ち合わせや出会いの場として密かに利用していたといいます。
出会いを求めて来る人たちは公園にある塔の周辺をうろつく「塔石」を行なって相手を探したといいます。この行為は鐘路にも多くいた路上売春婦の模倣だとも言われており、当時からクィアコミュニティと売春女性の近接さを象徴するとともに、似た形の社会的烙印のもとで暮らしていたことがわかります。
また、タプコル公園はLGBTQIA+人権団体が初めて単独でデモを行なった場所でもあります。
②パゴダ劇場 ―「P極場」という隠語
公園の東門を出てすぐの場所にあったのが「パゴダ劇場(파고다극장)」です。建物は2001年に取り壊されており、現在はその痕跡を路上で探すことしかできませんが、デヒョンさんはここで足を止めて丁寧に説明しました。
1960年代初頭、パゴダ公園の東門のすぐ前に設立されたパゴダ劇場は、1966年には「名宝(ミョンボ)」「アジア」と並ぶソウルの三大映画館のひとつとなりました。しかし60年代末からは二本立て上映館として運営され、青少年も入場可能で、一度チケットを購入すれば一日中館内に留まることができました。
この「匿名性」と「長時間の滞在が許される空間」という特性が、ゲイ男性たちの集いの場としての機能を生み出しました。パゴダ劇場は2001年の取り壊しまで、ゲイたちが集まりパートナーを探し、行為をする場所として「P極場(P극장)」という隠語で広く知られていました。このような空間の歴史をよく表している韓国映画に、ホン・ミンキ監督の『楽園』(2023)があります。
このシアターの名称自体が、公園中央のパゴダ(塔)に由来しており、韓国クィア史の研究者たちはこの場所を、鐘路ゲイコミュニティの原点として位置づけています。暗がりのスクリーンの前で、名前も言えずに肩を寄せ合っていた人たちがいた ― そう語るガイドの声は静かでしたが、参加者の誰もが真剣に聞き入っていました。

③楽園ショッピングセンター(ナグォンサンガ) ― 楽園という名のゲイ・ゲトー
次に向かったのは、パゴダシアターから徒歩数分の楽園ショッピングセンター(낙원상가)です。1969年に竣工したこの巨大複合施設は、楽器商店街として知られる一方、その周辺の路地・楽園洞(ナグォンドン)は韓国語で「楽園」を意味し、長年にわたって韓国のゲイ男性にとっての「楽園」として機能してきた街区です。
1974年には昌徳宮前にこの地域最初のゲイバー「심(シム)」が開業し、1978年には「갈등(ガルドゥン)」、1979年には「갈(ガル)」が続けてオープンしました。1980年代を経て、1970年代以降、楽園市場周辺一帯はゲイ男性たちにとっての重要な集いの場となり、多数のゲイバーが鐘路に集まるにつれ、楽園商街はゲイ男性たちにとっての空間的な拠点であり続けました。
現在、鐘路は少なくとも1980年代以降、ゲイ男性の文化的ゲトーとして機能しており、ゲイ男性を中心とした100を超える飲食・娯楽施設と人権活動団体が集積するコミュニティを形成しています。夜になれば楽園洞の路地に光が灯り、ゲイバーやカラオケバーが人々を迎えます。

④フレンズ(Friends)― 現役のゲイバーで語る歴史
薄暗の路地を進み、現在も営業するゲイバー「フレンズ(Friends)」の前に立ちました。フレンズは鐘路エリアにおける老舗のゲイバーのひとつで、クラシックなゲイバーの雰囲気と会話しやすいレイアウトが特徴として知られています。
この地にゲイバーやスペースが多くある背景には音楽市場の変化があります。それ以前の娯楽はバンドなどの演奏者が支えていましたが、90年代以降にカラオケ文化が発達していくと楽器屋が閉店し、楽器倉庫の空きも多くなりました。その後、地下テナントにカラオケバーが入居する中でゲイバーも少しずつ数を増やしたそうです。
街の雰囲気も感じながら、鐘路ゲイコミュニティの変遷についての解説が続きました。鐘路3街駅の3番出口と6番出口の間、楽園アーケードへと続くエリアは、かつて高齢者層や会社員が多い街として知られていました。フレンズを紹介した意図としては、その街との関係性を表すためと説明がありました。地上にあるゲイバーとして、レインボーフラッグを掲げ、最初は差別や偏見を受けつつ、時を経て年齢・性的指向を問わない活気ある包括的な地区へと変化してきたことがフレンズの存在によって表されています。

⑤梧珍庵(オジナム)―交差する街を捉える 性風俗とキーセン
次に向かったのは、鐘路区益善洞にあった「梧珍庵(オジナム)」の跡地です。現在は別の建物に変わっているこの場所で、ガイドはひとつ断りを入れてから話しはじめました。「ここはゲイコミュニティの場ではありません。しかし、この街の複雑な歴史を理解するうえで欠かせない場所です」。
梧珍庵は1953年に開業し、1900年代初頭に建てられた約700坪の単層韓屋を使用した、ソウル市登録飲食店第1号です。日本の料亭文化は、日本の植民地期に持ち込まれた「요정(ヨジョン)」のひとつで、1970〜80年代には三清閣・大苑閣と並ぶ「料亭政治」の舞台として知られていました。1972年には李厚洛中央情報部長と北朝鮮の朴成哲副首相がここで会談し、7・4南北共同声明を事前協議したことでも有名です。日本人観光客を含む外国人客も多く、「기생관광(キーセン観光)」を助長する場所として批判される一面もありました。2009年に性売買あっせん容疑で摘発・廃業し、2010年に閉鎖。2014年には鐘路区がその名を引き継ぎ、伝統文化空間「무계원(武渓苑)」として再生されました。

は、なぜこの場所がクィアのヒストリーツアーに登場するのでしょうか。チングサイが収録する歴史研究(2018年)は、1950年代以降の鐘路において、性別規範から外れた実践をしていたゲイ・トランスジェンダー女性の多くが、歓楽業所の従業員として働いており、自然と性売買集結地や飲食・遊興業所に広範に存在した性売買女性と同じ現場を共有していたことを指摘しています。「비규범적 성(非規範的な性)」を持つ者たちが、社会の周縁に押し込まれながら同じ空間を共有していた―梧珍庵のある益善洞界隈はその現場のひとつです。
ただし重要なのは、これらを安易に「同じもの」として描かないことだとガイドは強調しました。セックスワーカーの女性たちと、性的少数者の男性・トランスジェンダー女性は、それぞれ異なる抑圧と生を生きていました。この街の歴史には、そうした複数の周縁化された人々の記憶が、地層のように重なり合っているのです。
⑥Chingusai(친구사이)― 人権団体オフィスで知る運動の歴史
ツアーの最後に訪れたのは、ゲイ人権団体「친구사이(チングサイ/Chingusai)」のオフィスです。1994年2月に結成されたチングサイは、韓国で最も歴史あるゲイコミュニティ人件運動団体のひとつです。

1994年、チングサイ(韓国語で「友人同士」を意味する)が設立され、ゲイ男性のための人権運動が本格化します。チングサイは「同性愛者同士の品位ある関係にもとづく友人グループ」と自らを定義し、より健全なゲイ文化の創出を目指しました。
同年にはレズビアン団体「끼리끼리(キリキリ)」も創設され、1995年にはソウル国立大学・延世大学のLGBTQ+団体が設立され、コミュニティの拡大とともに大学内での組織化も進みました。
チングサイのオフィスには、20年以上にわたる運動の記録が収められています。当時の会報誌、デモの写真、HIV/AIDS支援活動の記録―それらすべてが、このエリアで声を上げ続けてきた人々の証言です。
観光地からもほど近い街に息づくクィアの歴史
こうした「クィアの歴史の消去」は、鐘路固有の問題ではありません。2024年に発表された研究(Gang et al., 2026)によれば、ソウルのクィア居住者たちは都市空間の(再)編成とデジタル化のなかで、自らの存在を可視・不可視の狭間でナビゲートし続けています。ジェントリフィケーションによってゲイバーが次々と閉店するなか、コミュニティが積み上げてきた記憶は、誰かが意図的に守らなければ消えてしまうのです。
鐘路エリアのクィアの歴史は、弾圧と沈黙のなかで始まり、コミュニティの自助と運動によって少しずつ可視化されてきました。ジェントリフィケーションと都市再開発の波は、その記憶を再び消そうとしています。このツアーは、その消去に抗う、小さくも確かな抵抗の実践でもあるのだと感じました。

