香港・九龍半島南部に位置する油麻地。花布街や玉器市場にほど近い上海街には、戦前・戦後の面影を残す古びたビルが今も軒を連ねています。その一室に、「MUM’S NOT HOME(媽不在家)」があります。エレベーターのない建物の階段を上がった先にひっそりと構え、看板も控えめ。しかし、重い扉を開けて一歩足を踏み入れると、そこには香港の均質化しがちなカフェシーンの中でも異彩を放つ、カラフルでリラックスできるような自由な空間が広がっています。油麻地といえば、果物問屋や古い映画館、風化した路地裏の雑貨店が立ち並ぶ庶民的な下町であり、観光地化されたセントラルやコーズウェイベイとはまるで異なる時間が流れています。そんな街の一角にこの店があるという事実自体が、すでに1つの物語を語りかけてきます。
店名の「ママは家にいない」という言葉には、深い意味が込められています。共同オーナーのマクイ・マさんによれば、「母親が家にいないときにこそ、本当にやりたいことができる」という発想がこの店の原点なのだといいます。誰かの目を気にせず、ありのままの自分でいられる場所という思いが屋号に凝縮されています。

店を営むのは、チョウ・コンチェンさんとマクイ・マさんの2人。ファッションデザイナーとビジュアルマーチャンダイザーというクリエイティブな仕事を経てきたお2人は、オーストラリアやニュージーランドを旅した経験を通じて人生観を大きく変え、香港に戻ってこの場所を立ち上げたと伝えられています。もともとは旅先で集めた雑貨やハンドメイドのアクセサリーを売る小さなスペースとして始まりましたが、やがて有機的にカフェへと姿を変えていったという成り立ちも興味深いところです。開業から数えて、この店はすでに約10年もの間、この場所で営業を続けてきたことになります。家賃の高騰や再開発によって個性的な小店が次々と姿を消していく香港において、これは決して当たり前のことではありません。
店内に一歩入ると、鬱蒼と茂る観葉植物、東南アジア由来の装飾品、きらめくカーテン、そして柔らかく灯るライトが出迎えてくれます。年季の入った床や剥がれかけた壁がそのまま生かされ、ビンテージの家具や古着、手作りの小物が所狭しと並ぶ様子は、まるでアート作品と音楽とファッションが渾然一体となったコレクションのようです。棚の一角には旅先で買い付けたであろう雑貨や、オーナー自身の手による装飾品も並び、単なる飲食店というよりは私設のギャラリーやアトリエに招かれたような感覚に近いといえます。窓辺から差し込む午後の光が植物の葉を透かし、壁の古びたペンキと相まって、時が止まったような、それでいて生き生きとした空気をつくり出しています。フォークやインディー、クラシックが流れる店内で過ごす時間は、単なる飲食にとどまらない体験となります。

この店が「クィアカフェ」と呼ばれる所以は、単に経営者がクィアのカップルであることだけではありません。店内にはチョウさん自身が手がけたポートレート作品が常設され、その多くはジェンダー規範にとらわれない人物を被写体としています。既存の「男らしさ」「女らしさ」の枠に収まらない表現がごく自然に壁を飾り、誰もが自分らしくいられる空気をつくり出しています。香港には、性的マイノリティに対する包括的な差別禁止法がいまだ存在せず、同性婚も法的に認められていません。そうした社会背景の中で、クィアコミュニティが誰の視線も気にせず安心して集える場所は今なお限られており、このカフェはそうした数少ない「サードプレイス」の1つとして、肯定と表現の場を静かに、しかし確かに提供し続けてきました。声高にスローガンを掲げるわけでも、レインボーフラッグを大々的に掲げるわけでもありません。むしろ日常の延長として、誰もが分け隔てなく座り、ケーキを頬張り、会話を交わせる空気そのものが、この店の政治性であり優しさでもあります。実際、キャセイパシフィック航空が公開した香港のLGBTQIA+ガイドでも、九龍を代表するクィアスペースの1つとして紹介されています。

看板メニューはチーズケーキです。マサラ、ラベンダーチョコレート、ピスタチオレモン、バタフライピー&ライム、そして濃厚なドリアンを使ったものまで、既成概念にとらわれない組み合わせがずらりと並びます。一皿ごとに手作りならではの揺らぎがあり、同じ「マサラ」でも訪れるたびに微妙に表情が違うという声もあります。バタフライピーで青紫に染まったソーダや、大ぶりのシルバーカップで供される紫芋のラテといった、視覚的にも遊び心にあふれる一杯も人気です。フローラルティーや果実を使ったお茶も揃い、どれもオーナー2人の美意識が細部まで行き届いています。ケーキを切り分けるたび、店内に漂う甘い香りとフォークやインディーの旋律が混ざり合い、時間の流れがほんの少しゆるやかになる感覚を覚えます。
このカフェは事前予約制で運営されており、気軽にふらりと立ち寄れる店ではありません。数日前から連絡を取り、席を確保してようやく扉をくぐることができる仕組みは、一見不便にも思えます。しかしその手間を経てでも訪れたいと考える人が後を絶たず、開業からおよそ10年を経た今もなお、油麻地の隠れ家的存在として愛され続けています。予約制であるからこそ、店内はいつも落ち着いた密度に保たれ、慌ただしい観光消費とは無縁の、じっくりと腰を据えて過ごせる時間が約束されています。再開発が進み、個性的な小店が姿を消しつつある香港の街並みの中で、古い建物の記憶を残しながら新しい価値観を育む場所は決して多くありません。MUM’S NOT HOMEは、甘いケーキとともに、誰もが自分らしくいられる時間を静かに提供し続けています。

華やかな観光地とは一線を画す、路地裏の小さな解放区。MUM’S NOT HOMEの存在は、香港という都市が持つもう1つの顔を映し出しています。多様性と創造性が息づくこの場所に立ち寄れば、ガイドブックには載らない香港の表情に出会えるはずです。
「MUM’S NOT HOME」
住所:1/F, 302 Shanghai St, Yau Ma Tei, Kowloon, 香港
アクセス:油麻地から徒歩2分
営業日時:木曜から月曜 14:00-19:00
定休日:火曜・水曜

