ソウル・梨泰院(이태원)というと、何を思い浮かべるでしょうか。日本でも知られるようになった夜の繁華街、多国籍な人が行き交い、さまざまな国や地域の食を楽しめるレストランが連なる大通り。そして、LGBTQIA+のコミュニティを長年受け入れてきた街としての顔とさまざまなシーンが見受けられます。1980年代から形成されてきた「ホモヒル(Homo Hill)」と呼ばれるエリアには、韓国各地から、そして世界中からクィアの人々が集まり続けています。外国人の多い国際的な土地柄ゆえに、他のエリアよりも早くからクィア属性が「見えても大丈夫な場所」として機能してきました。この街は、韓国のクィアコミュニティにとって、象徴的な意味を持っています。
そういったバックグラウンドを持つ梨泰院から南山(남산)のふもとへと続く坂を上っていくと、「解放村(해방촌)」と呼ばれる小さな住宅地が現れます。かつて朝鮮戦争後に北から引き揚げた人々が暮らし始め、丘の上でそれぞれの「解放」を迎えた地。いまはアーティストや個人経営の店が点在し、ソウルの喧騒とは一線を画した静かな空気が漂っています。
この坂の途中にある独立書店「IN PROGRESS(인프로그레스)」は、そうした2つの場所の文脈を背中に受けながら、本棚を通じてジェンダーとフェミニズム(여성주의)の問いを静かに紡ぎ続けています。
エディターが「女性主義の書店」を開くまで
書店を運営するのは、雑誌エディターとしてのキャリアを持つキム・アンジェラ(김안젤라)さんです。解放村に10年以上暮らし続けてきた彼女が、ある春の4月に生活の場の延長としてこの空間を立ち上げました。
ポッドキャスト「スモールポケット(small pocket)」のなかで、「女性作家たちの舞台」という言葉で紹介されたこの書店。雑誌が好きでエディターになった彼女が、なぜ独立書店を、しかもフェミニズムの書店を始めるに至ったのか。その問いへの答えは、店の空間そのものに宿っているようです。
半地下の扉の先に。
建物の外観は、解放村に数多く建つような3階建てのヴィラ(韓国式集合住宅)です。「IN PROGRESS」の看板はビルの壁にひっそりとついており、ガラス扉の文字やT-シャツやポスターが目標になっています。
建物の横にある入口から階段を降りると、半地下に丁寧に整えられた玄関が現れます。
扉を開けた先は、白い壁を背景にオレンジ色で統一された、本が並ぶ静かな空間が広がっています。書架にも、中央のテーブルの上にも、一冊一冊が丁寧に選ばれ、配置されています。解放村の風景を写した絵葉書、ドライフラワー入りのキーホルダーといった小さな雑貨。「伴侶グッズ」というユーモラスな紹介がつけられたそれらは、本屋というより誰かの居間に招かれたような感覚をもたらします。
植物が随所に置かれ、白い猫がゆったりと歩いています。中央のテーブルと椅子では、お茶を注文するか本を購入すれば、好きなだけ読みながら過ごすことができます。毛糸が入ったバスケットも置かれていて、編みものをしながら時間を過ごしてもいいと言います。急いで来て、急いで帰る場所ではありません。

本棚が語るもの。女性作家、フェミニズム、クィアの声
「IN PROGRESS」が「女性主義書店」と呼ばれる理由は、棚に並んだ本を見ると自然と腑に落ちます。
セレクションの中心にあるのは、女性作家による作品と、フェミニズム・ジェンダー・クィアをめぐる思想書・エッセイ・詩集です。韓国では2016年の江南駅女性殺人事件をひとつの転換点として、若い女性たちが声を上げ、フェミニズムへの関心が爆発的に高まりました。チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016年)が社会現象となって以降、女性の経験を主語にした作品が次々と刊行され、それを専門に扱う独立書店もソウル各地に増えていきました。「IN PROGRESS」もそのムーブメントと呼応しながら、より小さく、より個人的な場所として解放村の坂の途中に根を張っています。
クィアをめぐる本が棚に並んでいることも、この書店の姿勢を示しています。先述のように、梨泰院・解放村エリアはソウルのなかでもLGBTQIA+コミュニティと歴史的に縁が深い場所です。その土地の文脈の上に、性的マイノリティの経験を届ける本棚が存在することは、偶然ではないでしょう。
韓国のクィアをめぐる状況は決して平坦ではありません。同性婚の法的承認は現時点でまだ実現しておらず、トランスジェンダーやノンバイナリーをめぐる社会的議論も続いています。フェミニズムとクィア理論の間の緊張と連帯もまた、韓国独自の形で展開されています。そうした複雑な文脈のなかで、小さな書店が「まだ途中」の問いを手放さずに開いているということ—それ自体が、この空間の核心にあるように思います。

「IN PROGRESS」であること
店名の「IN PROGRESS」は「進行中」や「途中」を意味します。完成していない、まだ動いている、問い続けている。そんな態度の宣言のような名前です。フェミニズムもクィアをめぐる問いも、答えが出て終わるものではなく、日々新たに更新されながら「途中」にある。その感覚を書店の名前そのものにしてしまうことに、この場所の誠実さが見えます。
訪れた人が「宝のような本を2冊見つけた」と記し、「いい独立書店を記憶しておく」と書き残しています。急な坂道を上り、小さな目標を見つけ、半地下の扉を開ける。その手間ひまがあってこそ、出会える場所が、解放村にはあります。
韓国語が主体の空間ですが、本を手に取り、並んでいる言葉の気配に触れるだけでも伝わるものがあるはずです。オーナーの目利きで選ばれた1冊を、解放村の静けさのなかで読む時間は、きっとその人だけのものになるでしょう。

「_IN PROGRESS」
アクセス: 地下鉄6号線「ノクサピョン(緑莎坪)」駅2番出口から龍山02番マウルバス(緑色の小型バス)に乗り、解放村五叉路停留所で下車。さらに坂を上ります。スニーカー推奨。
営業日:12:00-19:00 火曜定休日
Instagram:https://www.instagram.com/in_progress_books/
Web:https://litt.ly/inprogressbooks

