「セクシャルマイノリティ」「LGBTQ+」という言葉がメジャーなものになりつつある中、当事者ならではのもやもやを筆者がエッセイにまとめました。
普通の日常と、もやっとする瞬間について
筆者は20代半ばのバイセクシャル、AFAB※です。自分のジェンダーアイデンティティはよくわかっていないので、クエスチョニングともXジェンダーとも思っています。
毎朝7時に起きて仕事に行っています。休日には映画を観たり、たまに友人と会ったりして過ごします。毎日を普通に過ごしています。
職場ではクローズにして、今まで特に誰にもカミングアウトをしたことがありません。つまり、表面上私は「普通の人」です。しかし、この「普通の人」として生きる上で、その場で言えないけれど心の奥でもやっとする瞬間が無数にあります。そんな小さな違和感やつらさを今回はシェアしたいです。
※AFAB:出生時に女性と割り当てられた人のこと。
参考文献:https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/glossary/a/16.html
お洒落でも面白くもないセクシャルマイノリティ

今ではこんな雑なラベリングをする人はいないと思いたいですが、「バイセクシャルの人は、外見に気を遣い、おしゃれな人が多いです」というような内容の記事を昔読んだことがあります。今はそこまで直接的なことが発信されることはなくなりましたが、マイノリティについて勉強したり、配慮ある行動をする人は特別意識の高い人だという見方はまだあると思います。
また、プライド月間などで行われるイベントに出席している人々は、みんなそれぞれ着飾っていてとてもおしゃれです。SNSで自分らしさを発信している当事者の方々も、おもしろかったり魅力的だったりして、とても輝いて見えます。もちろん、そうした表現は素晴らしいし、勇気づけられることも多いです。
それに対して、私はどうでしょうか。部屋着で近所のコンビニまで行き、流行りの服にはなかなか挑戦できません。SNSで発信するどころか、家族にも面と向かってセクシャリティの話をしたことがありません。ジェンダー迷子ですが、外見を試行錯誤するほど外見での表現を重んじているわけでもありません。
笑いがとれるゲイバーのママや、さばさばして頼りになるかっこいいレズビアンなど、マジョリティにとって面白い・有益な存在しか見られていないように感じて、もやもやすることがあります。まるで、セクシャルマイノリティは何か特別で興味深い存在でなければならないかのように。
自分らしさを貫いて生きることは素晴らしく、目立つことも多いが、私たちが生きているのは普通の日常です。朝起きて、歯を磨いて、仕事をして、疲れて帰ってくる。そんな当たり前の毎日の中に私は存在しています。特別さはそこにはありません。
(ルッキズムについては以下の記事もご覧ください)
マイクロアグレッション地獄

「普通に見える」マイノリティとして生活しているので、日々様々なしんどさを感じることがあります。
まず、全ての恋愛トークは私の相手が男性であることを前提にして繰り広げられます。「結婚してる?彼氏いないの?」「どんな男性がタイプ?」といった質問が日常的に飛んできます。極力当たり障りなく、かつ自分にとって負担が少ないように対応しますが、私がセクシャルマイノリティであるという可能性を考えられることはないのだ、と少し残念に思います。
以前「え、あなたは普通に男の子が好きでしょ?」と聞かれたときには、普通がなんなのかわからなくなりました。その人の思う「普通」と、私の中の「普通」は全く違うものなのに、組み込もうとされる息苦しさを感じました。
自分に攻撃性の矛先が向いていないことでも、つらくなることがあります。高校の教室で、男子生徒が友人に向かって「お前ゲイだろ~」とからかっているのを聞いた時には、この空間にそれを聞いて苦しく思うゲイの人がいませんようにと本気で祈りました。怖くて何も言えなかった自分が、今でも悔しく思い出されます。そもそもゲイであることが、なぜからかいの言葉に使われるのでしょう?ゲイだったとして、何が問題なのでしょう?
このように、私の日常は、無視してやりすごすこともできなくはないけれど、ちょっと傷ついたりがっかりしたりしてしまう出来事に溢れています。一つ一つは小さなことかもしれませんが、積み重なると重い荷物のように心にのしかかってきます。
孤立、そして理解への渇望

自分の個性を共有できる親しい人を増やしたいのに、言い出すのが怖くてできません。以前、ほぼ初対面の人に性のあり方について軽く触れた際に「ジェンダーの人?」と言われたことが、苦く心に残っています。悪気はなかったのでしょうが、まるで私を珍しい生き物のように扱われたような気がしました。
マイノリティが集まるコミュニティにも顔を出してみたことがありますが、なんとなく歓迎されている感じがしませんでした。同じマイノリティだからといって、ひとくくりに集まれば打ち解けられるというものでもありません。
カミングアウトをすることで関係性が変わってしまうのではないか、距離を置かれるのではないか、理解されずに傷つくのではないか。そんな恐れが先行して、結果的に自分を隠し続けてしまいます。でも、隠し続けることで感じる孤独感も確実にあります。
ライフステージへの悩み

今は独身で、今後も婚姻という形のパートナーシップは選ばないつもりでいます。しかし、この選択について周囲からの理解を得るのは簡単ではありません。
親からは結婚・妊娠・出産を暗に勧められます。「いい人に出会えるといいね」「子どもはかわいいよ」といった言葉に、どう返答すればいいのか悩みます。結婚したくない・子どももあまり持ちたくない私の気持ちは、否定こそされませんが、肯定されることはありません。親の期待に応えられない罪悪感と、自分の生き方を否定されているような寂しさが混在しています。
また、これからずっとひとりで生きていく可能性について考えると、現実的な不安も湧いてきます。孤独の問題は?病気になったら誰が支えてくれるのか?老後はどうなるのか?もし同性のパートナーができたとして、法的保障のないパートナーシップで本当に支え合って生きていけるのか?不安は尽きません。
同性のパートナーを得ることの難しさ、共に暮らすうえでの社会的・法的障害の多さにもうんざりします。異性愛者であれば当たり前に与えられる権利や保障が、私たちには与えられていません。
普通のルートから外れていく恐怖、これが同調圧力というものなのでしょうか。周囲と同じように生きることの安心感を手放すことの重さを、日々感じています。きっとこの重さはなかなか軽くならないと思いますが、静かに耐えながら、できるだけ軽くするように努めていきたいです。
ひっそりと存在する

私は特別おしゃれでも、面白くもありません。声高にアクティビズムを叫ぶわけでもありません。ただ毎日を生きている、ありふれた一人の人間です。
でも、その普通の日常の中に、セクシャルマイノリティとしての私が確実に存在しています。見えないだけで、感じられないだけで、私たちはあなたの隣にいます。職場に、学校に、家族の中に、友人グループの中に、私たちはひっそりと存在しているのです。
あなたの身の回りにも、私と同じようにクローズにして生きるマイノリティがいるかもしれません。その存在を想像し、尊重していただけたら、それだけで私たちの日常は少し生きやすくなります。
特別でなくても、目立たなくても、私たちには生きる場所があります。そのことを、忘れないでいてほしいのです。


