30代のゲイである私は、これまでの生活の中で「家族ですか?」と問われ、答えに迷った経験を何度もしてきました。特に病院や災害時といった緊急の場面では、その一言が大きな壁となって立ちはだかります。
非当事者にとって「家族ですか?」という質問はごく自然で、当たり前の確認事項に映るでしょう。けれど、LGBTQ+当事者にとっては、自分にとって大切な人を「家族ではない」と否定せざるを得ない状況を突きつけられることがあります。この記事では、私自身の体験を踏まえながら、この問いが当事者にどのような影響を与えるのかを考えていきます。
「家族ですか?」という問いが突きつけるもの
病院での入院・面会手続き

ある時、私自身が体調を崩し、入院が必要になったことがありました。受付で最初に問われたのは「ご家族の方は?」という確認。私はパートナーと一緒に病院に行きましたが、彼は「家族」として扱われず、手続きに関われませんでした。
病室に入ることすら制限されることがあり、医師からの手術や治療の説明も受けられない。もし自分の意識がなくなった場合、パートナーは私の代わりに判断する立場にはなれません。最も信頼している相手であっても、“家族ではない”という理由だけで排除される現実が、病院の場面では容赦なく突きつけられます。
私にとっては当たり前に「家族」のような存在であるのに、その関係性は制度上「他人」とされる。この壁の前で何度も無力感を覚えました。
災害時の避難や安否確認

天災の場面でも同じような壁にぶつかります。私は過去に地震で避難所に行かざるを得なかった経験があります。その際、避難者カードに「続柄」を書く欄がありましたが、そこにパートナーのことを記すとき、いつも選べるのは「友人」という言葉だけでした。
「家族」と書けない関係は、安否確認や支援を受けるうえでの不安に直結します。本当に一番大切な人であるのに、公式な場面では“ただの友人”としか記せない。災害という非常時だからこそ、本当のつながりが制度に認められていないことの心細さがより強くのしかかりました。
当事者として感じた不安や葛藤
パートナーなのに“他人扱い”される現実
病院で入院したとき、最も頼りたい存在はパートナーでした。けれど手続きや説明の場で彼は排除され、形式上は「家族」ではないからと蚊帳の外に置かれました。その瞬間、「自分の人生で最も大切な人が、社会にとっては赤の他人」という事実を突きつけられたように感じました。
信頼している相手がいても、その関係が制度に認められない。だからこそ「もし自分に何かあったとき、この人は自分を守れないのではないか」という不安が常に心に残ります。
緊急時だからこそ強まる孤独感
災害時も同じです。避難所で「続柄は友人」と記さざるを得なかった時、本当は“家族以上”の存在なのに、そのつながりを誰にも伝えられませんでした。もし安否確認や支援の場面で「家族でないから」と区別されてしまったらどうなるのか・・・考えるだけで心細さに押しつぶされそうでした。
こうした状況では、当事者は常に二重の不安を抱えています。
- 災害や病気そのものへの不安
- 制度や社会の仕組みによって「大切な人が他人扱いされる」不安
本来なら支え合うことで乗り越えられるはずの場面で、逆に孤独感が強まってしまうのです。
非当事者には見えにくい壁
法的保障の有無による差
「家族ですか?」という問いは、形式的にはただの確認に過ぎません。けれど、その背後には法的な保障の有無が大きく関わっています。法律で結婚が認められている異性カップルは、病院でも避難所でも迷うことなく「家族」と答えられます。手続きや説明を受ける権利も当然のように認められます。
一方で同性カップルの場合、制度上は「家族」とみなされません。そのため、たとえ長年一緒に暮らし、互いを一番大切に思っていても、いざというときに「他人」とされてしまいます。非当事者にとっては気にも留めない確認が、当事者にとっては人生を左右する重みを持つのです。
無意識の「家族=異性婚」という前提
多くの人にとって「家族」と聞けば、自然に「男女が結婚して子どもを持つ姿」が浮かぶでしょう。このイメージ自体に悪意はありません。しかし、その無意識の前提がある限り、同性パートナーは“想定外”とされ続けます。
病院や避難所の職員も、日常的に「家族=異性婚」と思い込んで対応してしまうことがあります。悪気がないからこそ改善されにくく、その結果、当事者は日常的に「想定されていない側」に置かれてしまうのです。
どうすれば安心できる社会になるのか
制度面での保障が欠かせない
病院や災害の現場で感じる不安の多くは、制度上の立場が「家族」と認められていないことに根ざしています。現状、各自治体が導入しているパートナーシップ制度は一歩前進ではありますが、法的拘束力がないため、実際の対応は病院や施設の運営方針に左右されるのが実情です。
病院という性質上、家族ではない人が「パートナーだ」と虚偽の申告をし、患者本人の生死や治療方針を勝手に決定してしまうことを防ぐ必要もあります。こうしたリスクがある以上、パートナーシップ制度だけでは十分に機能せず、現場の判断に委ねられてしまうのです。
だからこそ、同性婚の法制化が求められています。法的に「家族」と認められることが、病院や災害時における安心の基盤になります。非当事者にとっては当たり前の「家族として扱われること」が、当事者にとってはまだ手に入らない。ここにこそ大きなギャップがあるのです。
個人レベルの理解とサポート
同時に、制度だけでは解決できない部分もあります。実際に私たちが病院や避難所で接するのは職員や周囲の人々です。その場で「パートナーなら一緒にどうぞ」と言ってもらえるかどうかは、制度以上に心強さをもたらします。
また、友人や同僚といった身近な関係の中で「家族=男女」という前提を崩すような言葉選びを心がけてもらえると、当事者は安心して関係性を共有できます。社会全体の理解と、個人の小さな配慮の積み重ねが、当事者の安心を支える大きな力になります。
おわりに ― 小さな配慮が社会を変える

「家族ですか?」という何気ない問いは、非当事者にとっては単なる確認事項に過ぎません。けれど、LGBTQ+当事者にとっては、自分にとって最も大切な人を「家族ではない」と突きつけられる瞬間になることがあります。
病院での入院や治療の場面、災害時の避難や安否確認―緊急時であればあるほど、この壁はより重くのしかかります。現行のパートナーシップ制度には法的拘束力がなく、対応は現場の判断に委ねられています。だからこそ、同性婚の法制化という形で確かな保障を整えることが、当事者の安心に直結します。
制度の変化には時間がかかりますが、その間にも私たち一人ひとりが理解や配慮を積み重ねることはできます。「家族とは誰なのか」という問いを、多様な人のあり方に沿って考え直すこと。そこから、誰もが大切な人を大切にできる社会が始まります。